最近、リムスキー・コルサコフの「シェヘラザード」をよく聞きます。
「千一夜物語」を管弦楽に書き下ろしたもの。 千一夜語りつづけるシェヘラザードは私が憧れる女性の一人。 彼女は毎日いろんなお話をします。 そしていろんな世界が、いろんな人がいるということを、千一夜かけてかたっていくことで、 この世界の豊穣を示していきます。 妻の不貞に怒り狂い、世界を不信の目でしかみることができなくなった王は、次々に若い娘を殺していく。それを案じたシェヘラザードは 「世界はかくも広く、かくも多様で、豊かなのだ」と、再び王が、この豊かな世界を愛することができるようになるために、様々な奇想天外なお話を語り聞かせていく。 それが彼女にできるたった一つのことだったから。 この世界には、なんて沢山のお話があることでしょう。 こんなに沢山の人がいるのだから、そして一人の人からも、毎日沢山のお話がでてくるのだから、それはそれは、世界には沢山のお話で溢れ返っている。 心躍るようなお話、胸が苦しくなるような辛いお話、感動で思わず涙が溢れでてしまうようなお話、身の毛もよだつほど恐ろしいお話、滑稽でおかしなおかしなお話。 そうして私は知る。 世界は、なんと計り知れない大きなものなのだろうか、と。 自分が知ることができるのはしかしそのほんの一部。 私には及びもつかないような、様々な生活の中、様々な思いを抱いて沢山の人たちが生きているこの世界。 「シェヘラザード」を聞いていると、さまざまな情景が浮かんでくる。 嵐の海をいく海賊船、空とぶ絨毯、戦う兵士、酒場で歌い踊る人たち、悲しみに暮れる老婆、月を見上げて夢見るように歌う娘、復讐に燃える息子、愛のために明日はわが命を差し出すために祈る男、そんな情景がまざまざと浮かび上がってくる。 私はそのさまざまなメロディにあわせて、様々な登場人物になって、踊りだしたくなる。 とくに情感豊かな三楽章になると、腕が勝手にうごきだす。 腕は空気に色をつける。 身体で情感を表すのは腕の役割だ。 踊りでは腕によってその情感を観客に伝えるけれど、また、その振りをすることで踊り手自身にもその情感を深々と甦らせることができる。 腕というのは、肩から生えているのではない。 胸から生えている。 心の翼だ。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1360/rimsky.htm 私のもっているCDではシェヘラザードの次にラベルの「ボレロ」が入っている。 ボレロは足だ。 圧倒的に下半身。 腕が胸からでているとしたら、足はおなかから生えている。 大地と体の中心をつなげている。 ボレロは身体を大地につなげる。 以前関心空間で書いた記事を載っけておこう。 クラシックバレエの多くが天上的で、ロマンティックな時空を越えた異次元の幻想の世界であるのに対し、コンテンポラリーの巨匠ベジャールは彼の代表作である「ボレロ」で地上の生と死が繰り返される混沌を表現した。 ラベルの「ボレロ」を思い出してほしい。私には子宮に流れる血の音に聞こえる。 この曲は頭でもハートでも聞けない。腹で聞いてしまう。 ボレロの中でドンの跳躍や回転は決して軽やかではない。 彼の跳躍は降り立つことを目的に飛び立っているように見える。 アクロバティックでスピードのある動きはなく、大きくシンプルな動きが綿々と続くが、それゆえにドンの類稀な美しく鍛え上げられた肉体と、全身にゆき渡る力強い生命の躍動感を見ることができる。 ボレロはたった一つのフルートから始まる。そこに一つ、また一つと音が加わっていく。 メロディもリズムもずっと同じであるが、音が一つずつ加わっていくことにより、力強くなり、壮大なクライマックスへと入っていく。 ただ繰り返されるだけの単調なものがこれほど官能的な感動を我々に与えるのはなぜか。 ドンは舞う。ボレロのリズムに合わせて、左の手を掲げ、右の手を掲げ、そしてその両手を頭上で交差させて、次に脚の付け根に下ろして地面に押し付ける。 人と人が出会い、結ばれ、新たなものが生まれ、生まれたものはまた誰かに出会い、と、人はずっとこの連鎖の中で生きてきた。何千年も前から脈々と受け継がれた生命の連鎖。 脚をプリエ(軽く膝を曲げること)させ、リズムにあわせて大地を踏みしめる。 片足を踏みつけながら、円を描きつつゆっくりとまわる。 終盤は台座に跪き、両手をあらんかぎり台座にうちつけ、 ラスト両腕と上半身全体で激しくもがきそしてラスト、打ち崩れる。 肉体という牢獄に閉じ込められた魂がもがき苦しみ、地を激しく打ち付けながらも、結局地へと倒れこんで最後を迎える人間。その人間の姿をかくも美しく踊りぬいたドン。 肉体をもって生きるということは一つの牢獄の中で生きるようなものだと、クラッシックバレエの軽やかに舞う風の精を夢見る私は時に思う。 しかし同時にこの肉体は一つの奇跡でもあるのだ。 地に縛られ、体に縛られ、私たちは精神の自由を求めてもがく。 ドンは私たちに見せてくれる。その姿がどれほど美しいものであるかを。 神は天から私たちが苦悩し、歓喜する姿を、そんなふうに感嘆な思いで見ているのかもしれない。私たちが天上の天使の舞に憧れるように、 神はドンの舞のような人の生き様を夢見て我々を作り出したのかもしれない。 肉体に閉じ込められた私たちの魂が天上にとどかんと、懸命に右往左往する姿こそ、 神がもっとも私たちに求めているものではないだろうか。 19世紀に花開いたロマンチックバレエはニーチェが言うように高く飛ぶことで神に近づけると信じ、より高く飛び、神に、精霊になろうとしていたが、古代では、人は我らをつくった神々に舞を捧げた。神になろうというよりは、神々を魅了し、地上に招くために踊ったのだろうか。 なんと魅惑的なことだろう。
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